ken_nのブログ

西洋やアジア、また日本の近・現代史に関心があります。

野に落ちし種子の行方を問いますな 東風吹く春の日を待ちたまえ

  管野須賀子(菅野スガ)の石碑(1971.7.11建立)が正春寺の墓地にあるという。その寺は東京の代々木にあるそうだ。石碑の表には、次の和歌が刻まれているという。石碑の存在も、この和歌のことも、私はごく最近知った。
 
    くろかねの
  窓にさし入る
  日の影の
  移るを守り
  けふも暮らしぬ

  彼女は、大阪で生まれ、東京で1911年1月25日に絶命した。29歳の若さだった。毎年、1月下旬の土曜日に追悼集会が開かれているらしい。

  文学者の内田魯庵は、彼女のことをこう述べる。

「新聞に載った写真よりは美貌で、どことなくチャームがあって、且(かつ)こなしがあだめいていたので、……花と伝はれてゐた」と(『自筆本 魯庵随筆』)。

  それを裏づけるように、何人かの男が狂わんばかりに、彼女の虜になっている。

  彼女の日記「死出の道艸(みちくさ)」の1911年1月23日づけの文章を読むと、寺について複雑な心境が書いてある。

「懐かしい妹の隣りへ葬られたいのは山々であるが、……私はあの寺(正春寺)が気に入らないから、一番手数のかからない雑司ヶ谷の……墓地へ埋めて貰う事にきめて居る」と。

  正春寺の気に入らない理由は、「お経の功徳によって亡者が浮かばれるという様な迷信のない私達は、自然寺への附届けも怠り勝ちであったので、墓参度によく厭な顔を見せられた」からだという。だから、「大嫌いなあの坊主」とまで本音を吐露している。

  私も、同様に「迷信」など持ちあわせないから、似たような体験をしている。とある寺の檀家とはいっても、もともと仏教の信者でもない。だから、僧侶の言葉や念仏を儀礼的なものにしか捉えていない。しかも、親の後を継いだ中肉中背の、お坊っちゃんのような僧侶の態度に不快なものも感じている。やや尊大なところが見受けられるからだ。

  死を前にしてみれば、誰しも考えることは墓の問題になるのだろうか? しかし、僧侶に対しての私と同じような考えに、不謹慎ではあるが、吹き出しそうになった。

  ところで、彼女の日記には、24首の自作の和歌が載っている(1911.1.20記)。そのうちのなかから選ばれた1首が石碑の表に刻まれたわけだ。

  しかし、暗い。魯庵によれば、彼女は美貌でチャームで、花ではないか。そこで、じっくりとその24首を味わってみた。その中で私の琴線に触れたのは次の3首だった。彼女の生き方を想像してみると、この中のどれかだろうと独りごちている。

  1.いと小さき
   国に生まれて
   小さき身を
   小さき望みに
   捧げける哉

  2.やがて来む
   終(つい)の日思ひ
   限りなき
   生命を思ひ
   ほゝ笑みて居ぬ

  3.野に落ちし
   種子の行方を
   問いますな
   東風吹く春の
   日を待ちたまへ

  やはり、私なら3番かな。じっと耐えながらも、いつの日にかやって来る温かさが感じられるからだ。毅然としながらも、優しさが滲んでいる。チャーミングな彼女の人柄さえ偲ばせていると思うが。とにかく、陰気なのは性に合わない。たぶん彼女にも。

  小学校しか出ていないが、読書好きだった(†3)。死の直前まで、読んで、考えて、書いて、そして英語の勉強を気にしていた。また、英語の原書にも挑戦しようとしていた(1911.1.20記)。

  夢に向かってひたむきに頑張る努力家だったのだろう。そんな彼女のイメージが浮かんでくる。

  前日に11名の絞首刑が午前8時から開始された。そして、11人目の処刑が終わったのは午後4時前だった。彼女は、そうした事実を一切知らされていないようだ。暗くなり始めたから、最後の彼女だけは次の日に延期されたという(†1.p.67註)。だから彼女は、何の前ぶれも知らずに突然に呼びだされ、1911年1月25日に絞首刑を執行された。たぶん午前8時のことだったのだろう。

  縊死(いし。首を吊った状態での死亡)を確認されたのが、午前8時28分だったそうだ。死亡が確認されるまで、どのくらいの時間が経過したことだろうか? その間中、ロープを首にかけられ、吊り下げられた状態で放置されていたことになる。

  その最期に、私の目頭は熱くなる。想いは100年もの時を駆け抜ける。機会あらば、花を手向けに行きたいと思っている。東風(こち)吹く春の日を待って。


〈了〉


[参考]
†1.池田浩士編・解説
『逆徒「大逆事件」の文学』インパクト出版会、2010、pp.37-67・193-194

†2.田中伸尚
大逆事件岩波書店、2010、pp.111-112・334

†3.井上清
『日本女性史(下)』三一書房(新書)、1955、pp.110-112